ベトナム戦争(section 9)

4.15 南ベトナム解放民族戦線によるテロの増加

1964年1月のクーデター以来、南ベトナムは度重なるクーデターで政権交代が繰り返され、南ベトナム政府による都市や村落への支配力はきわめて不安定となった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の空白状態に乗じて治安撹乱を目的にした無差別テロ攻撃を全国各地で繰り返し行い、サイゴンはじめ都市部の治安状態までもが悪化した。

サイゴン市内のテロ事件現場テロの対象は南ベトナム軍やアメリカ軍の基地と関連施設、南ベトナム政府の関連施設のみならず、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館やレストラン、ホテルやディスコにまで広がった。南ベトナム政府の発表によれば、1962年には1719人、1963年には2073人、1964年には1611人、1965年の1月から5月には539人の南ベトナム市民が南ベトナム民族解放戦線による攻撃の犠牲となっている[16]。アメリカ国務省の発表では、1964年には官吏や村長が436人と民間人1350人が各地でベトコンによる攻撃の犠牲になったとしている[17]。

これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、士官学校の校長、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。

4.16 韓国軍の参戦

1966年にフィリピンのマニラで行われたSEATO会議に出席した南ベトナムのキ首相、オーストラリアのホルト首相、韓国の朴大統領、フィリピンのマルコス大統領、ニュージーランドのホロヨーク首相、南ベトナムのチュー大将、タイ王国のキティカチョーン首相、アメリカのジョンソン大統領(左から)大韓民国の朴正熙政権は、アメリカの要請により1964年に最初の海軍部隊を派遣した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした[18]。

1965年8月13日、韓国国会がベトナム派兵に同意する[19]。1965年10月には、陸戦部隊である「猛虎師団」1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入して、1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害、ベトコンとの戦闘での損害比は36:1(アメリカ軍は12:1)であり、北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘は避けるように通達したほどであった。また、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter」と紹介されるなどした。韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。 

タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどを含むSEATO(東南アジア条約機構)も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、さらに韓国自体が、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。 

この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、南北ベトナム軍やアメリカ軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や婦女レイプが起こった。生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機関銃乱射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている。[20]、また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている。

詳細は「ライタイハン」を参照

4.17 チュー大統領就任 

グエン・バン・チュー大統領戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。 

なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this: