ベトナム戦争(section 6)

4.7 ジェム大統領暗殺

クーデターで殺されたジェム大統領この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた。

11月2日にはクーデターが発生し、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は反乱部隊により政権の座から引きずり下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で頭部を撃たれて殺された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部は国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。

なお当初、「ジェム大統領は自殺した」と伝えられていたため、ジェム大統領が信仰心の篤いカトリック教徒であることを知っていたケネディ大統領は、「自殺した」との報告に非常に大きな衝撃を受けていたとマクナマラ国防長官は証言している[10]。

ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている[11]が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している[12]上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との声明を出すように指示を出した。

4.8 南ベトナム政府とクーデター

右から南ベトナムのグエン・カオ・キ首相とグエン・バン・チュー国家元首、アメリカのウィリアム・ウェストモーランド将軍とリンドン・ジョンソン大統領(1966年10月)南ベトナムはその後約2年間の間に、戦争中にも関わらず13回ものクーデターが発生するという異常事態になる。この様な状況下において、親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にグエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放されることとなった。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。

アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2月25日にグエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。1966年9月3日、韓国軍白馬部隊がベトナムに上陸する[13]。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。

カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューにかわり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった。

この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得競争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。

4.9 ジョンソン大統領就任

エアフォース・ワンの中で大統領就任宣誓を行うジョンソン副大統領ジェム大統領が殺害された20日後の11月22日に、テキサス州ダラスを1963年11月の大統領中間選挙の遊説のために訪れていたケネディ大統領が暗殺され、直後にケネディ政権の副大統領であったジョンソンが大統領に就任した。

かつてケネディ前大統領が発表した「軍事顧問団撤収計画」は、この計画発表の原因となったジェム大統領(と対立するケネディ前大統領)の暗殺を受けて実行に移されず、さらに、ケネディ政権でベトナムへの軍事介入政策拡大を推し進めたマクナマラ国防長官やラスク国務長官などの主要閣僚がジョンソン政権に留任したこともあり、その後ジョンソン政権は、かつてケネディ前大統領やマクナマラ国防長官らが推し進めた軍事介入拡大政策をそのまま転換することなく、ベトナムへの軍事介入政策拡大を推し進めて行くこととなる。そして、1963年11月には、ベトナムへの直接介入計画の検討が開始されている。[14]

なお、2003年に公開されたマクナマラ国防長官の自伝的ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー、マクナマラ元国防長官の告白」において、大統領就任後のジョンソン大統領とマクナマラ国防長官との電話の録音記録が紹介され、「ジョンソン大統領自身が南ベトナムからの軍事顧問団撤収計画に強く反対であった」ことの証拠であるとされた。

しかしこの映画は、ケネディ政権とジョンソン政権下でベトナム戦争への軍事介入政策を推し進めた直接的な責任者であったマクナマラ国防長官の自己弁護の要素が強いことに注意が必要であり、実際に映画内においてマクナマラ国防長官は、「自身もケネディ政権末期に南ベトナムからの軍事顧問団撤収計画を推し進めた」と主張したが、実際にはマクナマラ国務長官はケネディ政権末期においても、ジョンソン政権発足時においても南ベトナムからの軍事顧問団の撤収を主張することは一切なく、この時点において軍事顧問団の撤収を主張したのは、ジョージ・ボール国務次官補ただ1人だけであったことが明らかになっている[15]。

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