ベトナム戦争(section 5)

4.4 仏教徒弾圧

マダム・ヌーとジョンソン副大統領1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、大きな衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも大きな影響を与えた。

これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。

4.5 ジェムとケネディの対立

ヌー秘密警察長官とジョンソン副大統領南ベトナムの状況のさらなる悪化を受け、ケネディ大統領がゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の更迭をジェム大統領に提言するが、ただちに拒否されるなど、ベトナムへの軍事介入と併せて、南ベトナム政府への内政干渉を強化するケネディ大統領とジェム大統領の関係は悪化していった

これに対して国務省は両者の関係を修復させることを画策し、ジェム大統領からの信任が高かったものの、その後ジェム大統領の独裁的な指向と、それに対する南ベトナム国民の反発の拡大を指摘していたCIAのサイゴン主席駐在員であるエドワード・ランズデールを駐南ベトナム大使に任命し、ジェム大統領の「方向修正」を行うことをケネディ大統領とジョンソン副大統領、マクナマラ国防長官に提案した。

しかし、ケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、ランズデールが「ホワイトハウス内で無名の人物であり」、「地位が比較的低い」[6]ことを理由にこれを拒否し、かつては政敵だったものの、ケネディ大統領との関係が深かったヘンリー・カボット・ロッジJr.を駐南ベトナム特命全権大使に任命した。ロッジ大使は8月24日にサイゴンに着任し、その後直ちにジェム大統領に対してヌー秘密警察長官の更迭を再度求めるべく会見を求めたが拒否された。なおケネディ大統領はロッジ大使に対して「もしジェム大統領がヌー秘密警察長官の更迭を拒否したなら、『(アメリカは)ジェム自身を保護できない可能性に直面すると警告せよ」との訓令を授けていた[7]。

この様に内政干渉を繰り返すケネディ政権を、完全に敵対視するようになったジェム大統領に対して、ケネディ大統領は9月2日にウォルター・クロンカイトとのインタビューの中で「サイゴン政府(ジェム大統領)が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ」とジェム大統領に対して警告した上で「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ[8]南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。

4.6 段階的撤収計画

ビエンホア基地に展開する「軍事顧問団」のダグラスB-26爆撃機この様にアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収には反対したものの、ジェム大統領率いる南ベトナム政府への軍事支援を続けることに限界を感じていたケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、対立が深まりアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジェム大統領への揺さぶりをかけることも踏まえて、これまでのようなアメリカ軍「軍事顧問団」の増強方針から一転して、10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団を1,000人引き上げる予定」であることを発表した。

そして11月には、マクナマラ国防長官が年内の1,000人の「軍事顧問団の引き上げ予定」を再確認するとともに、「アメリカ軍『軍事顧問団』を段階的に撤収させ、1965年までには完全撤退させる計画がある」と発表し、最大の支援国であるアメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。

しかしケネディ政権は、「軍事顧問団の段階的な撤収計画」の概要こそ発表したものの、「軍事顧問団」完全撤退後の具体的なベトナム政策については何も発表していなかった上、上記のように、ケネディ大統領自体が南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤退論に対してあからさまな嫌悪感を表明していたため、このアメリカ軍「軍事顧問団」の撤収作戦がジェム政権に揺さぶりをかけるためだけのものであったのか、それとも本気で段階的に撤収しようとしていたかという点については議論が別れる。

なお、後に国務長官となり、泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、自著の中で「ケネディ政権のかつてのメンバーの中には、ケネディがアメリカ軍(軍事顧問団)を撤退させる決定を1964年の大統領選挙の後にするつもりだったと論じている人もいるが、その他の同様の要職に就いていた人はこれを否定している」とケネディ大統領とその政権による「軍事顧問団の撤収計画」の存在を否定している[9]。

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