ベトナム戦争(section 4)

4 経過

 4.1アメリカによる支援

ワシントンD.C.を訪れたゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるドワイト・D・アイゼンハワー大統領ジュネーヴ協定成立の翌年の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義者のゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。これに伴いバオ・ダイ帝は退位し、ベトナム国は消滅した。

ゴ・ディン・ジエムはジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否したため、この選挙に勝てると踏んでいたベトナム民主共和国との対立が先鋭化することになる。

アイゼンハワー政権下のアメリカは「ドミノ理論」を根拠に、反共産主義的な姿勢を堅持したジエム政権をフランスに代わり軍事、経済両面で支え続け、南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始するなど、本格的な支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、ジエム大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。

4.2 南ベトナム解放民族戦線

ジュネーブ協定に基づく統一選挙が行なわれなかったことを受け、1959年に北ベトナムは、南ベトナムの武力解放を検討し始めた。この北ベトナムの姿勢や南ベトナムの政情不安により、1960年12月に、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」で「National Liberation Front」の略)が結成された。NLFは「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させ宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。

南ベトナム解放戦線はベトミン勢力が中心であり、実質的に北ベトナムのベトナム労働党政府が主導していたが、共産勢力のみならず、南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していた。なお南ベトナム解放戦線は、北ベトナム軍を経由して中華人民共和国やソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けていた。

4.3 ケネディによる派兵増強

ケネディ大統領とマクナマラ国防長官1960年1月にアイゼンハワーを継いでアメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。これを受けて特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言した。

これらの報告を受けてケネディ大統領は、正規軍の派兵は、キューバで起きた「ピッグス湾事件」や「キューバ危機」、西ドイツで起きた「ベルリン危機」などの他の地域において起きていた対立を通じて、世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国を「過度に刺激する」として行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し[2]、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、アメリカ軍の正規軍人から構成されたアメリカ軍「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定した。

この決定に併せてケネディ大統領は、J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員会委員長に対し、「南ベトナムとラオスを支援するために『アメリカ軍』を南ベトナムとタイ王国に送る」と通告し、併せてこの決定を正当化させるために、リンドン・ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた[3]。ジョンソン副大統領はベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え[4]、同じくマクナマラ国防長官も、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーン将軍への支持を表明した上に「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[5]、ケネディ大統領の決定にお墨付きを与えた。

サイゴン市内をパレードする南ベトナム陸軍にアメリカから貸与されたM24軽戦車その後ケネディ政権は、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留するアメリカ軍「軍事顧問団」を、1961年末には3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。併せて1962年2月にケネディ政権は「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、その規模、内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ王国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定した。

ケネディ政権はアメリカ軍「軍事顧問団」の増派と、南ベトナム軍への軍事物資支援の増強という形の軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ大統領やジョンソン副大統領、マクナマラ国防長官の思惑に反して、アブバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍「軍事顧問団」が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、一向に事態は好転しなかった。

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