ベトナム戦争(section 18)

7 和解

グエン・チェット国家主席とアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領(2007年)詳細は「ベトナム#アメリカとの関係」を参照 

ベトナム戦争の終結から20年後の1995年8月5日に、ベトナムとアメリカは和解し、国交を回復した。その後の2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードやゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出した。 

その後、上記のような大企業を中心とした多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。なお、ベトナムにとって、現在アメリカは隣国の中華人民共和国に次いで第二の貿易相手となっている。 

また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。 

また枯葉剤問題は賠償はしていないものの、アメリカ政府とフォード財団は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。これは貿易関係であるために、アメリカが一歩譲ったと思われる。 

8 評価  

アメリカのニクソン大統領と歓談するフランスのド・ゴール大統領(1969年)

現在のホー・チ・ミン(サイゴン)市内ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さを全世界に伝えた。アメリカ国内では史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナの地で何のために兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ政府に集中した。かつてベトナムを侵略・支配していたフランスでもシャルル・ド・ゴール大統領は「ベトナム戦争は民族自決の大義と尊厳を世界に問うたものである」と述べている。ただしド・ゴールは、1954年に自国がインドシナから撤退したことについては「不本意だった」と語っている。

ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことでインドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。ただし、アメリカがインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある[25]。逆にアメリカのインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。 

この地はその後も安定せず、ベトナムは無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナムに侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。背景にはインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあり、ソビエト連邦や中華人民共和国などの共産主義国が、人道上の理由で北ベトナムを支援したものではないことが誰の目にも明らかになった。 

ベトナム戦争終結から34年後の2009年現在では、カンボジアでは選挙により政権は民主化し、ベトナムとラオスでは依然として共産主義政党による一党独裁統治が継続しているものの、経済的には、社会主義的政策の行き詰まりからドイモイ政策などにより国家による管理統制経済を破棄して、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れざるを得なくなっている。さらにベトナム、カンボジア、ラオスは東南アジア諸国連合に加盟し、ベトナムはWTOに加盟して、東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれざるを得なくなり、経済的な状況に限れば、アメリカが戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。 

これは、東南アジア諸国連合加盟諸国の目覚しい経済成長が達成されたことや、ソ連を盟主とする共産主義陣営とアメリカを盟主とする資本主義陣営間の冷戦が終結し、ソ連や東欧諸国の共産主義体制が崩壊して、共産主義体制の行き詰まりが明白になったことによる必然的な結果である。 

この事実は、政治的・経済的な目的の追求・実現の方法・手段として、戦争による方法と戦争以外の方法の組み合わせの利点・欠点を多様な観点から考察し、政治的・経済的な目的の追求・実現の方法・手段として、武力行使以外の方法を含めて適用することの重要性を示す歴史的な教訓になっている。それと同時に、アジアに限れば、一度、共産主義政権が確立された共産主義諸国(ベトナム、ラオス、中華人民共和国など)においては、本来の社会主義と反する市場経済の導入や外国の資本投資の受け入れなどの政策を採用しても、非共産主義の開発独裁政権(インドネシア、フィリピン、韓国など)の場合とは異なり、(事実上の)一党独裁体制を放棄して、複数政党を許容する民主主義体制に移行することはなく、共産党上層部が富や権力を独占する体制が続くという教訓を示している。 

サイゴン市内に放置された南ベトナム解放民族戦線兵士の死体また、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。なお、アメリカ政府は枯れ葉剤などの環境破壊や人的被害に対して正式に謝罪はしていないものの、様々な形で反省の意思を示しており、2006年にティム・リーザー補佐官が『アメリカが戦争中に行った行為に関して、我々は様々な面においてベトナム国民を支援する責任がある。枯葉剤など化学物質の使用もこの(戦争中の行為の)一つである』と述べ、かつて共産化を防ぐために軍事介入したことに贖罪意識を持ち、様々な支援が施されている。なおベトナム政府も同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、何ら謝罪するコメントを出していない。 

ベトナムは多大な被害を受けたのに極端な反米感情が見られずベトナムには親米的な者が多い。これはベトナム人が過去を恨まず未来志向が強い性格であり、また北ベトナムによるサイゴン陥落後にはかつて腐敗していた南ベトナムが崩壊し北ベトナムを歓迎していたが、結局は共産主義により経済を大きく停滞させ、市民は映画などで垣間見るアメリカの繁栄にあこがれる人が増えたためであるようだ。 

しかし南北間に対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配してしまった。さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強い。

9 報道  

日本人カメラマンの沢田教一が撮影した、銃弾から逃れる母子をとらえた「安全への逃避」ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマンや新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が活躍した。

彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。 

特にアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、テレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まった(なお北ベトナムの場合も、取材とその報道内容に対して大幅な制限がかかった)。 

またアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this: