ベトナム戦争(section 17)

4.38 南北ベトナム統一

サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、1969年に南ベトナム解放民族戦線と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。しかし臨時政府は、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立したものであり、主要閣僚職はいずれも南ベトナム解放民族戦線内の労働党員に占められていた傀儡政権であった。 

サイゴン市内にあるホー・チ・ミンの銅像南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者、リベラルな学生なども多数参加していたが、ベトナム統一後、それらの影響は排除された。なお亡命せずに国にとどまった約10万人にのぼる南ベトナム軍と旧政府関係者らは、当局への出頭が命ぜられ「再教育キャンプ」と呼ばれた強制収容所に送られ、階級や地位に応じてそれぞれ数週間から10年以上をキャンプで過ごした。1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年以上キャンプに収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した(当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求した)[24]。 

南ベトナム共和国臨時政府は正式な政府に発展すること無く、1976年4月にジュネーブ協定以来の懸案であった南北統一選挙が行われ、7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言され、「南ベトナム共和国」はサイゴン市陥落から1年余りで消滅した。 

統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」が新たに制定された。 

5 損失

 5.1ベトナム  

ジャングルに枯葉剤を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)

戦時中でも活発な経済活動を見せていたサイゴン市内(1968年)

南ベトナム解放戦線の兵士に捕虜にされたアメリカ空軍兵士(1973年)1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数百万以上の負傷者を出した。 

このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。 

また、共産主義政権による武力統一、および統一後の性急な社会主義経済の施行は、フランス統治下時代より活発に行われていた資本主義経済と、それがもたらす消費文化に長年慣れ親しんだ南ベトナム経済の混乱を招き、また統一後の言論統制などが都市富裕層や華人の反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。 

なお、南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により容赦なく処刑されるか再教育キャンプ送りになった。解放戦線はサイゴン陥落直後、人民軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。わずかに解放戦線議長を務めて統一に多大なる貢献をしたグエン・フートは戦後に実権のない名誉職である国会議長を務めた程度である。 

南ベトナムの元司法大臣のチュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は、『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)で、サイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。『共産主義黒書コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4-87430-027-8)によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。 

5.2 アメリカ

アメリカは、自らの利益また共産主義化を防衛のために遠いベトナムの地に軍事介入したこの戦争で、戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果必要となった膨大な戦費負担は、同時期に巻き起こったオイルショックなどと併せてアメリカ経済を直撃した。 

しかしながら、この戦争によりボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスやノースロップ・グラマンやリング・テムコ・ボート、ヒューズエアクラフトなどの多くの軍需関連企業は「特需」で大きな利益を手にし、ヒューズエアクラフトなどのいくつかの破産寸前だった企業は息を吹き返した。 

アメリカの経済に対する軍需産業と軍産複合体の影響力の詳細についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照 

また、戦争をめぐっての国内世論の分裂や、事実上の敗北による挫折感は既成の価値観を崩壊させ、アメリカ国内では犯罪の増加や麻薬の増加、教育の崩壊・貧困の増加などがおきた。反戦活動の高まりによる兵士の士気の低下や徴兵拒否の増加を受けて、アメリカ軍がベトナムから撤退した1973年には徴兵制が廃止された。他にも、「勝利」を獲得できなかったベトナム帰還兵への非難や中傷が社会問題化した。 

またアメリカは旧南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープル、難民を数十万人受け入れた。 

6 日本への影響

ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6ヶ月間に亘って日本の総理大臣を務めた佐藤栄作(1964年秋~1972年春)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀、横田などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。その見返り的に、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県のアメリカからの返還を実現した。 

左翼の一部はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、一般市民による平和的な反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自ら行う「反戦」(事実上の反米)運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。なお、ベ平連などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。 

詳細は「ベトナムに平和を!市民連合#ソ連からの支援」を参照 

また、ベトナム戦争終結後、1989年までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルは大部分が華僑であったことが使用言語などから分かっている。

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