ベトナム戦争(section 15)

4.31 アメリカ軍の全面撤退  

「ハノイ・タクシー」と呼ばれたロッキードC-141輸送機で、北ベトナムから帰国の途に就くアメリカ軍人捕虜パリ協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1月29日にニクソン大統領は「ベトナム戦争の終戦」を宣言した。 

その後、パリ協定に基づきアメリカ軍は南北ベトナム全土から一斉に撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。 

なおアメリカ軍は、パリ協定の調印を前にすでにベトナムからの全面撤退の準備を進めていたこともあり、「終戦宣言」からわずか2か月後の3月29日には撤退が完了した。しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていたアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。 

4.32 アメリカ軍撤退後の戦況  

南ベトナム空軍のセスナA-37攻撃機

西沙諸島に駐留する南ベトナム軍兵士

ジェラルド・R・フォード大統領(左)とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長なお、パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。これに対して、パリ協定が締結されアメリカ軍が南ベトナムより全面撤退した結果、本来増えるはずのアメリカからの南ベトナム軍への軍事支援の規模は激減していたため、前線における南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦力の格差は決定的に広がることとなる。 

しかし、パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍はしばらく南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者の数や損失も増大して行った。 

また、1974年1月には勢いを増した北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都プノンペンに迫る。9月以降はソ連や中華人民共和国からの軍事援助を受け、力をつけた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後もじりじり南下し、その勢いは増すことはあっても減ることはなかった。

なおこの渦中に、中華人民共和国の中国人民解放軍が、南北ベトナム間の戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を攻撃し(西砂海戦)、独立以来の南ベトナム領で当時石油などの地下資源があると推測されていた西沙諸島一帯を占領した。その後のベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による不法占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。 

4.33 ニクソン退陣

同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しと中間選挙に集中しなければならず、これらに集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けることになった。 

その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞やベトナム戦争に対する膨大な戦費と不況の関係などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失ったと言えるような状況になった。 

実際に、フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの統一総選挙実施への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低かった 

4.34 北ベトナム軍の全面攻撃  

1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図この様な状況を受けて、「北ベトナム政府はアメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。 

この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落した。この様な状況を受けてグエン・バン・チュー大統領はアメリカに対して軍事支援を要請したものの、完全に南ベトナム政府を見捨てたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。 

4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた上に士気も落ちており、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、まもなく北ベトナム軍はサイゴンに迫った[23] 

このような状況を受けて、アメリカ政府は南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び、養子縁組を受けさせる「オペーレーション・ベイビー・リフト」を4月4日に開始した。しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキードC-5「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中153人が死亡し、多数の戦災孤児が死亡するという悲劇が起きた。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4月26日まで続けられ、3300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。

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