ベトナム戦争(section 14)

4.28 北爆再開  

爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52

トンキン湾に展開する南ベトナム海軍船艇アメリカ軍は講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆を再開することを決定した(ラインバッカーI作戦)。 

この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。 

アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃で北ベトナムの都市に対して2週間で20,000トンの爆弾が投下され、ハノイやハイフォンを焼け野原にし、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。 

さらに新たに前線に投入された超音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペーブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。 

海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、敢え無く撃沈、阻止されていった。 

4.29 北爆の成功  

戦時下のハノイアメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被い、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底し、継戦不能な事態に陥った。 

この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。 

アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せてただでさえ貧弱な北ベトナムのインフラにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止されたが、アメリカ政府の目論見通り、この空爆の成功は北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追いこむことに成功した。 

4.30 米中接近とパリ協定調印  

北京を訪問したニクソンと会談する毛沢東

パリ協定への調印を行うアメリカのロジャー国務長官上記のように、就任以前から泥沼化していたベトナム戦争からの段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ねた。 

1972年4月に、ニクソン大統領は北ベトナムの主な支援国の1つである中華人民共和国を電撃訪問し、毛沢東国家主席と会談する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、当時ソ連と対立していた中華人民共和国に近づくことでソ連をけん制するのみならず、中華人民共和国が、国境を接する北ベトナムや、同じく隣国のカンボジアのポル・ポトを軍事的に支援し深い関係を持ち、影響力を持っている事が関連していると考えられた。また、中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていたアメリカと接近することは、文化大革命全盛期の1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソ連をけん制するという意味があった。 

なお北ベトナム政府は、米中両国の接近を自国に対する中華人民共和国の裏切り行為と受け止めた。以後、北ベトナム政府は中華人民共和国と対立するソ連との関係を強化し、中華人民共和国との関係悪化は決定的になった。なお戦争終結後、北ベトナム政府は国内の中国系住民(華僑)への抑圧政策を開始し、1979年に勃発した中越戦争の遠因となった。 

この様に、ベトナム戦争のみならず、アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、秘密交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。 

そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。 

なお、この「和平協定」調印へ向けて様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は、ベトナム戦争が終結していないことと、ベトナム統一が実現していないことなどを理由に受賞を辞退した。

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