ベトナム戦争(section 13)

4.25 中ソ対立の激化とデタント  

ニクソン大統領(右)とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民軍部隊が対峙する事態になった。 

1969年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。 

この様な状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国をけん制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。 

4.26 ホーミン死去  

東ドイツを訪問したホー・チ・ミン(中央)フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)及び政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツや中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。 

戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果になった[21]。 

ホーチミンが述べた言葉として『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』というのが有名である。[22]、中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。 

4.27 カンボジア侵攻  

カンボジア戦線に展開するアメリカ軍の戦車

カンボジア戦線の説明を行うニクソン大統領南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中に、アメリカの援助を受けたロン・ノル国防大臣と、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシアヌーク国王一派を追放し、シアヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。 

4月26日には、ロン・ノルの黙認の元、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くための目論見でもあった。

カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早速と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。また、南ベトナムとアメリカ両軍のカンボジア侵攻前後、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。 

なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の独裁者の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

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