ベトナム戦争(section 12)

4.22 ジョンソン退陣とアメリカの内政混乱  

ディーン・ラスク国務長官とロバート・マクナマラ国防長官とともに閣議に臨むジョンソン大統領

ベトナム上空で空中給油を行うアメリカ空軍のボーイングKC-135A結果的にベトナムにおけるアメリカ軍による戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、ジョン・F・ケネディの弟で、ケネディ政権とジョンソン政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明したこともあり、世論調査で最低の支持率を記録した。 

また、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、北爆の中止をめぐってジョンソン大統領と意見が対立したマクナマラ国防長官が1968年2月29日に辞任することとなった。これらの影響を受けて、3月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。 

この後も反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。 

相次ぐ暗殺事件にその後アメリカ国内の情勢は混乱を極めたが、8月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。これに合わせてシカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J ・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。なお、ジョンソン大統領は自らが所属する党の大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソン大統領は10月に北爆を全面停止させる。 

4.23 ニクソン登場と和平交渉開始

選挙戦を戦うリチャード・ニクソン同年に行われた大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立て戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。 

ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。 

なお、就任以前から段階的撤退を画策し、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する”秘密の方策”がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させた。 

4.24 「サイレントマジョリティ」  

ウッドストック・フェスティバルに半裸で集うヒッピー民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したニクソン大統領は、ブームと化した反戦運動に反感をもつ、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。 

ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらの「徴兵されることがない人々」を中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた。 

彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、各地で過激化する反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、反戦運動は、当初中心をになっていた理想主義的なインテリ層や現役大学生の手を離れ、単にブームに乗っただけのヒッピーなどを代表とする理念に欠けるものに変質し次第に弱まっていった。 

この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進をおこなう、静かなものに変わりつつあった。

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